シニアショートストーリー満ちていく
空が澄み渡る日、
彼は小さな庭の隅に置かれた椅子に座った。
70にもう少しで手が届く体は
昔のようにはもう動かない。
動かないが、代わりに
膝の痛みが天気を教え、
指の節々が朝の冷えを感じ取る。
我が身が教えてくれることは多い。
老人は少し寂しげに苦笑する。
座ったままゆっくりと空を仰ぎ見る。
「また一日が始まる」
雀が庭の隅に植えた桜の木にとまる。
二十年前に娘と一緒に植えた木だ。
今では立派に育ち、
春になれば美しい花を咲かせる。
娘は遠く離れた街で彼女が
夫とつくり上げた家族と暮らしている。
朝のルーティンは変わらない。
ラジオをつけ、古いポットでお茶を沸かす。
妻の形見になった茶碗でいただく朝茶は
大袈裟に言うなら一日の中で特別な時間だ。
今日も一人で過ごすことは承知の事だけど
寂しさは苦痛ではないなと彼は思える。
老いていくことは、
彼にとって満ちていくことでもあった。
満ちていくとは、若い頃は気づかなかったを
気づくようになる事かも知れない。
今より随分若い頃は忙しいが口癖で
勝手に時間に追われて毎日を生きていた。
だからこそ今が尊く思えるんだ。
鳥たちのさえずり、雲の形の面白さ、
家近くの川沿いの散歩道に健気に咲く
可愛い花たちよ。
皆、老いて知ることができるのだ。
老いてやっと知ることができることを
今は楽しみたい。
それがこれまで出来なかった
こと、私の人生パズルの空いた場所に足りない
ピースを埋めていくこそが生き続ける理由
となってくれるだろう。
そう、彼は思いながら毎日の朝を迎えている。
それこそが満ちていくことかも知れない。
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