糸井重里氏、松浦弥太郎氏
こんにちは、ジジです
ネットを見て周っている中で
言葉を生業にする二人の方の
言葉に触れ、なるほどなと
思うことがありました。
一人は松浦弥太郎氏
暮らしの手帳の元編集長で
今もエッセイストとして
活躍されています。
その方の書かれた本
「エッセイストのように生きる」
の中で
(何者かになることを求めて生きる生き方より
どんな人間になりたいのかを考える生き方)
その言葉を目にした時、頭の中で「!」と
言うマークが浮かびました(笑)
若い頃は何者かになりたいという欲が
強かったように思います
生きている証とでも言いましょうか
自尊心を満たす気持に囚われていたと
言えばいいでしょうか。
けれど、この年になると
何者かになる?そんなことは
どうでもよくなりました(苦笑)
それよりも、これから人生の終焉までに
私はどのような人間として、どのように
生きたいのだろう、ということに
興味を持っています。
そして、もう一人の方、それは
あまりにも有名な糸井重里氏です
糸井氏が作られたネットサイト
「ほぼ日刊イトイ新聞」には
糸井氏が毎日欠かさずに
短い文章でエッセイを書かれています。
その中で最近書かれた話として
「人は必ず死ぬと知ってて、どうして生きてるのだろう。」
この一行の文章が私には
ボディに一発くらってしまったように
効きました(笑)
そんなですよ、人はいずれ死ぬ
それは絶対で、なのに懸命に生きようとする
きっとその理由は人間として、いや生命体として
存在した以上、生きるという本能でしか
その理由はないと思います。
色々な立場、事情から、
いろいろな理由を語る人がいると思いますが
どれも正解で、どれもそうではないと
私は思っています
そして、唯一自分が感じたことは
生命体としての生きること死ぬまで
続ける、続けずにはいられない本能、
それしか理由がないと思うのです。
幼い時に、人は死ぬとどうなるのか、
という考えにハマり、答えのないものに
夢中になったことがあります
63才になった今の私にとって
その答えはひとつ
そんなこと、死んでみないとわからない
だから、ある人は恐怖し、ある人は宗教に
安息を願い、ある人はやけになった生き方をする
私は、ただただ、あっちには家族みんなが待っている
と思っています。
その思う方がいずれくるその時に
笑顔で目を閉じれると思うのです
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