シニアライフ・ジジ60代生活日記ブログ

シニア世代ジジの日々の暮らし

アルマーニって服があったね


こんにちは、ジジです


今、やっとユニクロで買った、えーっと
(ズボンのタグを見る)ウルトラストレッチ
ドライEXテーバードパンツのタグを外して
試し履きしています。うむ、やはりエアリズムは
履き心地が良いです。気候が夏へと向かい
始めるとエアリズムの黒のステテコを愛用します。
これ部屋着としては最適です。


今回のウルトラストレッチドライEXテーバードパンツ
は税別2990円ですけれど、中々これも履き心地良く
見た目も悪くないですね。って別に宣伝する気は
全くありません。(笑)


私の20代の頃って空前のイタリア系ファッションが
流行ってて、ジョルジオアルマーニなんてブランドが
とても人気でした。当時はお洒落にスーツとかを
着こなすって言うがステキとされていたんです。
なので、他者と同様に自分もスーツやら何やら
買っていました。月に服代で100万近くいった事も
ありました。一般庶民としては使い過ぎて増した(苦笑)


当時はまたカフェとビリアードがセットになった
店なんかも流行ってて近場の繁華街にも
よく通っていました。その頃、レンタルレコード店
なんてのもありましたって、そんなの知っているの
どれだけいるんだろうと思います。
同じ年代の人なら知っているのかなぁ~。


あの時はそれなりに高めの服とか色々買っていました
けれど、今からすれば嘘のようなものですね。
相方との新婚の頃は28才と23才くらいで
都心のDCブランドショップをはしごして二人で
色々買ったりしてたけれど、30年以上たった今
あの時買ったものなんて何一つ残っていない。
ネクタイくらいは残像のように数本残っていますけど。


でも、多分あの頃に皆がDCブランドとかで
買ってたのはユニクロのような店がなかったから
なんだと思いますよ。
ユニクロにしろ、MUJIにしろ、お安めで
結構お洒落なものを提供してくれてますしね。
女性ならH&MとかZARAとかも登場して
尚更お安めの中でも選択肢が増えていますからね。


昔、物価が高騰した時は凄く大変でしたけど
今が昔とちょっと違うのは食料品などは変わらず
物価高で困っていますが、それ以外では
100ショップやユニクロなどがあることで
比較的買い物ができているように感じます。


シニア世代になって、改まってどこかに
行くこともなくなったのでスーツも必要
なくなってからは見た目での費用はもう
いらなくなりました。それに意識的に
従姉世代になった親類縁者とは関わりを
持たなくてなりましたから冠婚葬祭も
ないですしね。


バイト生活にもなり同僚の事で
公的な場所にいくことないですから。
今は全くのプライベートでの生活しか
ありませんから、そうなると残る悩みは
「食」ですね。今は寝上がり値上がりで
家計は大打撃です。


ああ、それと医療費です。年とって
だんだんと薬の種類が増えてますから、
定期検診時にまとめてもらう薬代が
とても家計を圧迫しています。けれど
相方共々いろいろと体のガタの補修に
どうしても薬が必要ですからね。
これはケチれないんですよ~。


後は税金ですね。うちの場合は
固定資産税、住民税、あと保険ですね。
それ以外の分は今のバイトがフルタイムで
給与が天引きされているのですけど。


固定出費がある以上、食費の節約で
得られる収入の中でマイナス要因を
相殺したいのですが物価高でかなり
困難をきわめているわけです。


今のマンション暮らしは、隣は
何をする人ぞ社会ですから
オタクの所の家計ってどう?
なんて傷のなめ合いもできない(笑)


なので相方と二人ぼっちで
自分たちは貧乏だと念仏唱えて
どうにか生きております。


って!
またお金の愚痴になってしまった!!!
すいませんでした。


ゴールデンウイーク?もちろん普通の日


こんにちは、ジジです


テレビでゴールデンウィークに国内や国外へ
旅行に行く人が多いと空港からの中継で
放送されている場面をよく見ますが
何故かこれまで仕事場の人、隣近所でも
そうした人を見たことがありません。


今の職場で誰もどこかへ旅行へ行くとか
まったく聞きません。決まって家で
テレビか片付けみたいな話になります。
むむむ、土産あげたくなさに嘘ついてる?
なんてことは思いませんけど(笑)


私の所は結婚してから30年をとうに過ぎて
これまで東京に用事で行ったくらいで
旅行らしい旅行をした事がないですね。
一つには私が仕事で忙しかったこと、
リストラ(以前に書いた件です)になって
以降は単純にお金がなくて行けてない。


とは言え、二人ともドがつくほどの
インドアで、家で何かしているのが
好みということもありの旅行行かず
なんですけどね。


相方は実母の前からの希望で足が元気な
うちに国内を旅したいというのを
何年もの間付き添い兼ねて旅行に
付き合っていました。でも、私との
旅行は一度もない始末です。


自分は幼い頃、旅行好きの母に
連れられて父共々国内をよく旅行
したようです。とまぁ頼りない
言い方ですが、随分子供の頃の話で
実はあまり覚えていないんですよ。
ただ、ほんと母は行動派でしたから
私の春、夏、冬の長期休みの時は
一人で行先を決め、宿泊先を決め、
交通手段を決め、観光ルートを決めて
母先導で旅行に行きました。


考えれば母は大変だったよな、と
思います。ぼーっとした息子と
酒さえあれば良い父を引き連れて
行くんですから(笑)


で、それでも母は楽しかったようで
当時のカメラでオリンパスペンで
たくさんの写真を撮り、プリントも
たくさん残っています。


母は仕事へ出かけ、仕事帰りには
店で今日の晩御飯を買い、帰宅すれば
ほっとする間もなく、料理、洗濯をして
あっという間に寝る時間。
その日その日の楽しみは皆で食べながら
見るテレビ番組でしょうね、よく
テレビ見て笑っていました。


「ありがとう」「肝っ玉かあさん」
時代劇、大河ドラマ、昭和らしい歌謡ショー、
日曜劇場、昭和チックなバラエティー。
母の事を思うと、本当に世話になったなぁ、
あれは無償の愛だったなぁとつくづく
思います。夫婦とはまた別のものですね。


晩年の母は90過ぎ頃には、すっかり
私の知っている母ではなくなって
しまいましたけれど。


母が亡くなった時、ほんとに
喪失感が強くて、私自身の心が止まって
しまって何もできなくなってしまう
時期が長く続きました。それぐらい
母の存在は自分にとって想像以上に
存在が大きかったのでしょう。


相方にも申し訳ないですが、無理なく
自然な形で早く母や父、おばちゃん、
おっちゃんたちがいる、あっちの世界に
早く行きたいと思っています。


あらあら、ゴールデンウイーク話から
また話が大幅にそれてしまいましたね。
でも、血の繋がりで言えば、ほんと
親しい人がもうこっちの世界には
誰一人いないんです。だから
心にはいつもどこか隙間風吹いて
いるんですね。


今年のゴールデンウイークも多分
いや、きっとイオンか地元の高島屋に
行くくらいで終わるでしょう。
あとはスタバに一度くらいは行くでしょう。
それどころか、ウトウトする事が
二人とも多く、結果寝て日が過ぎるかも
知れません。(笑)

職場の70代の先輩爺は言います


こんにちは、ジジです


職場の70代の先輩爺は言います。
「こうして働くのは少しでも生活を楽に
 するためではあるけれど、それだけではない。
 働くことで頭を使い、神経を使い、体を使う。
 確かにこの年で働くの体力的にしんどい所は
 あるけれど、それでも働くことでボケ防止になり、
 定期検診の時の数値もいい。働かない方が
 色々と体の具合が悪くなる。」
そう言ってカラカラと笑っていました。
もう一人の同じ70代先輩爺も同じだそう。
また二人は休みの日はジョギングやらウォーキング
やらをしているそうです。


確かになぁ、と思い当たるところはあります。
母も晩年は極度ではないですけれど、あれっと
思うような認知の症状を見せていました。
ただ、60で定年してから一度も働かず
年金と貯蓄だけで93まで生きてくれましたが、
働かなくても私を悩ますほどの認知症には
ならなかったです。働いてはいませんでしたけれど。
ただ、定年後は友人と、もしくはツアーで一人で
国内や海外への旅行を愉しみ、日頃より習い事を
総括してできる自治体の組織で色々と学んでいました。
そうした自家発電的に動いてくれたお陰で
心身ともに元気だったように思います。
自分でも定年後には色々とやりたいことがある、
というのを実行したのだと思います。
ただ、ずっと残念だと言っていたのは父と
二人であちこち旅行するのを愉しみにしていたのに
それが父52歳の時に他界してしまったことです。


そんな刺激的に暮らしていた母も80代後半に入ると
家にいることが多くなり習い事もいかなくなり、
足を悪くしてからは旅行も行かなくなりました。
それでも近所はよく歩いていました。
スーパーからスーパー、路面電車4つ目の駅の
所に住んでいる叔母(妹)の所へと
手押し車を押して結構毎日動いていたんです。


そうしたことが母の認知を深刻な状態に
しなかったのだと私は思っています。
ただ、相方の父、義父は定年後はほとんど家にいて
好きなジャズのCDを聴き、蔦屋へ散歩がてら行き
映画のDVDを借りてきて観る。後はいきつけの
喫茶店でコーヒーを飲むくらいの毎日を
何年も繰り替えているうちに、ある日義母が
義父の異変に気づき検査を受けた時には
認知症が進行しはじめていたそうです。
薬でその進行を遅らせるように勤めましたが
結局は亡くなる数年前にそうした高齢者を
受け入れる介護施設にお世話になりました。


亡くなるまで義母と相方は義父に
会いに行っていましたが、悲しい事に
コロナが広がることで直接会うことができなく
なってしまい、施設と相方の実家で
スマホのLINEでやり取りをするようになって
しまいました。


やがて義父の体調が著しく悪くなっても
面会はできないままでした。それで
もう、命がいけないとされた時に
やっと特別にと、手続きを踏んだ上で
義母と相方は死に目に対面することが
できました。


母の事、義父の事を思い返しますと
老いていく中で何がよりその心身を
弱らせるかを考えた時に思ったのは、
母の場合は旅行先で転んでのち足を悪くし、
それで活動の大切な自転車に乗れなくなり
思うように動けなくなった事と
かなり最晩年は耳が聞こえずに好きな
テレビを見なくなったことなどが
重なって意欲がだんだんをなくなった事です。
もちろん私の方でも外へ連れ出したり、
以前の趣味だったものの道具を買って持って
いって再開することを勧めましたが
もうやることはありませんでしたね。


義父の場合は基本的には仕事人間でやってきて
その間は様々なストレスも多かったことでしょう。
それが定年により解放された時に何かをする
という気持に向かえなかったこと。それで
体は働いていたような疲労なありませんが、
いい事悪い事含めての脳内刺激がなくなり
ストレスも基本なくなった事で次第に精神面が
弱っていったのかも知れません。


刺激というのは結構大切だと思っています。
というのも私がカメラ専門店で働いている時、
お客の中には結構な私鉄電鉄の運転手さんが
いらして写真を休日に撮ってはフィルム現像やら
出しに来てくれてました。カメラやレンズも
買ってくださっていましたね。当時とても
元気な皆さんでした。それが、
それぞれが定年を迎えて電車から降りたあと
もう店には来てくださらないようになりました。
一人だけ定年後も趣味を多く持つことで元気さを
維持されている同僚だった方がいて、その人によれば
とても写真が上手くて店でも評判だった方は
奥さんは定年当時に病死され、一人になり
次第に心身が弱り、あっと言う間に亡くなったそうです。
また、別の方は定年の後、挙動がおかしくなり、
変のこと口走り、妙な恰好で近所を歩くようになった、
と言う話を聞きました。


仕事がとても好きな方、仕事が自分のプライドのほとんどを
占めている方は、ほんとに仕事を辞めた後の事を
真剣に考えておかないといけないんだな。と
当時30代終わりの頃の私は思いました。


働く社会人の現役を終えた後、どう生きるかは
考える上で大切なことですね。
母を見ても、義父のことを聞いてもどう暮らすかは
とても大切です。


個人的には働くことがいいかなと思いました。
母他界の後、1年ほど家にいましたが、
体の数値が上がる、太る、気力が激減するなど
良いことはまったくありませんでした。
働くことでそんな状態からは抜け出せました。
結局、働かずとも自分から動いて心身を
整えることができないルーズの私ゆえの
ことでした。


もっとも、それは私の場合で誰しもが
働いた方が良いとは思いません。
働くことで過度のストレスを受けて
かえって心身のバランスを崩すことが
起きるなら無理して働いていけません。
それは別の方法を見つけて自身の
心身を整えた方が良いですもんね。


ただ、生活というリアルな問題があり
年金だけで生活できなければ
働かなければ行けませんものね。
その場合は余程こだわりが強くないのなら
清掃バイトをお勧めします。
と言っても清掃もその場所によりますけれど。
人を関わりがわりとある所は結構めんどいです。
私が今いるところですけど(苦笑)
理想は清掃作業以外での人との関わりが
少ないところですね。清掃員同士が
交わりが多いところは面倒なことも多いですから。
あとはシルバー人材センターで相談して
自分に合うところを探すのもお勧めです。


生活の心配がなくて、働きことに抵抗がある方なら
旅行が一番だと思います。そのためにとにかく
足の健康を日頃より気とつけるようにしてください。
足が元気なら心も元気で居られます。